「響け!ユーフォニアム」は青葉真司容疑者を救う術を提示していたか?

※この内容は決して青葉真司氏の容疑を肯定するものではありません。

※まとまりもありません。

奏「たくさん練習して、毎日毎日居残りして、それで上手くなっても何も無いかもしれないんですよ! 誰も喜んでくれなくて、良いことも一個も無くて!」

久美子「そんなの当たり前だよ!一生懸命頑張って、努力して、努力して、努力して…でも結局駄目だったなんて誰にでもあることだよ!そんなのばっかりだよー!」

「でも…私は頑張れば何かがあると信じている…」

「少なくとも私と夏紀先輩は絶対奏ちゃんのこと守るから…」

 

「劇場版響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」の名シーンである。

努力が報われない可能性、理不尽な状況に陥ること、自分の無力感に打ちひしがれることそんな人生における苦しみを凝縮し、解放していく流れは心を動かされる。

 

https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_2691.html

京都アニメーション代理人弁護士によりますと、過去の作品の応募について京都アニメーション側が再度調べた結果、殺人や放火の疑いで逮捕状が出ている青葉真司容疑者(41)の名前と一致する応募があったことがわかりました。応募は、一次審査で落選していたということです。青葉容疑者は事件直後に「小説を盗まれたから放火した」と叫んでいます。代理人弁護士は応募があった小説の内容について「京都アニメーションの作品との類似点はないと確信している」としています。

青葉容疑者は小説を応募し落選してしまう。さらに、自分のアイデアや内容を部分的に流用されていると(そのような事実が無いとして、仮に本人の中でそう認識してしまったら)分かってしまったら…どのような思いを抱くだろうか。

 

努力が報われない可能性、理不尽な状況に陥ること、自分の無力感に打ちひしがれること…そんなどうしようもなく嫌になる気持ちや状況にどうやって私は、私たちは再び起き上がる術を得られたのだろうかと考えることがある。

もしも…もしもだが、主人公たち北宇治吹奏楽部が予選落ちした後、彼女らは全日本吹奏楽連盟内閣府?)をバーニングさせよう!みたいに流れになる可能性を考えたりする。だが、彼女たちはバーニング!を計画することもなく、審査員をぶっ〇すために包丁を買いに行きもせず、次のコンクールに向けて再び練習を再開するのである。

 

『いやそれが当たり前だろ、青春物語ってのは挫折の上にそれを受け入れて(適応機制における)昇華をしていくのが王道でしょ。バーニングも包丁もただの犯罪行為だし、そんな物語になったら彼女たちの努力って何だったのよ』

自分の中にある一般的思考がそう囁く。

確かに…確かにそうなのだが、何故昇華することが良くて攻撃することが良くないのかということをどれだけ自分は説明できるのかと考えてしまう。

今作の最後のシーン

久美子「ねえ奏ちゃん?悔しい?」

奏「悔しいですっ…悔しくって死にそうです!」

そう、「悔しくって死にそうです!」なのだ。

「悔しくって殺しそうです」 にはならない。

(奏が一人ずつ審査委員をザクザクしていく物語はそれはそれで面白そうだが…)

怒りの方向が外側ではなく、内側に行くわけである。

 

昨今はアンガーマネジメントやマインドフルネスなど自分中の怒りの感情だったり、落ち着いた状況を自ら作り出していくことが求められている時代になってきてる気がしている。もしかしたら青葉容疑者がこういった精神的マネジメントやコントロールといったものを理解していたら…このような事態にはならなかったのかもしれない。

また、彼に久美子や夏紀先輩のように守ってくれるような人がいたのだろうかと考えたりする。

久美子たちは一人ではない。もちろん価値観や思想の違う人間たちとの協働によるフラストレーションはありつつも、同じ目標を掲げた集団である。

予選落ちしても犯罪組織にならない社会通念を持ち合わせている仲間である。

一方で彼はどうなのだろうか。小説を書くという行為は自分一人で完結できてしまう。

努力をするという行為は結果が実らなくても意味があるものだと話してくれる人がいただろうか。京都アニメーションに報復しようという考えに気づいた人がいただろうか。小説を書き上げて応募したことを評価してくれる人がいただろうか。

 

青葉容疑者が「響け!ユーフォニアム」を見たらどのような感想になるのか素直に聞いてみたい。彼を救う術をどれだけ提示できているのか、または憎しみの対象になるのか、努力の可能性を見いだせるのか…聞いてみたいのである。