パチンコパチスロにハマっていたあの時…私は、あなたはどういう心理状態だったのか

2020年5月25日。

政府はコロナウイルスによる緊急事態宣言を解除していた。

ニュースが出た数分後、パチンコ屋からメッセージが来ていた。

「明日 営業再開 10時開店」

「9:40朝抽選 ご入店・朝抽選にはマスクのご着用が必要です」

 

一部のパチンコ屋は緊急事態宣言の最中でも通常通り開店を続けており、当然ながら「パチンコ屋は開けていて良いんですか?」といった批判を何件も見かけていた。だが、半分以上のパチンコ屋は開店を自粛していたと思う。

あの時開店していたパチンコ屋は、テナント料をはじめとした経費を払っていくスタミナがないため、営業せざるを得なかったんだろう。

「ウチだけやってれば独占できるだろうゲヘヘェ…」みたいなテンプレ悪代官のノリでパチンコ屋も営業を続けていくことは難しい。

(パチンコユーザーは年々減少している。http://www.nichiyukyo.or.jp/gyoukaiDB/m6.php)(公益財団法人 日本生産性本部「レジャー白書2018」より

こんなシビアな状況の中で、一方的に店側が客側を搾取するような状況では当然ながら人は来ない。今のユーザーはネットによってお店や台の情報をよく理解してから打ちに行く人も多くなったため、いわゆる「ボッタ店」は潰れる。)

緊急事態宣言解除後、即座に開店営業をかけるこのスピード感に少し心が揺れていたが、すぐに打ちたいという感情は無くなっていた。

 

あの時ハマっていた私はどういう心理状態だったのだろう。

少しずつ思い返してみたい。

アニメが好きな自分は多くの作品がパチンコスロットになっていることを知っていた。

4年前の2016年。私がパチンコスロット熱がピークに達していた時期だった。

作品としては「咲」「地獄少女」「エウレカセブン」「マクロスF」「戦国乙女」「化物語」「ひぐらしのなく頃に」「ガールズ&パンツァー」「まどかマギカ」「マジェスティックプリンス」…(藤商事の萌えシリーズも好きでした)

今でも作品群をすらすらと書き並べられるくらいによく覚えている。

本当に興味本位でやり始めていた。金を稼ぎたいとか優越感とかそういったものには全く関心もなく、どんな風に表現してるのかとか世界観を再現しているのかとかそういう気持ちでやり始めていた。

一万円をサンドと呼ばれている現金投入口に入れる。銀色の球やメダルが出てくる。まあ勉強代というか円盤買うようなもんだしなぐらいの感覚だったと思う。今思うとその時点で麻痺していた部分はあるかもしれない。

初めて打った台は何だったろう…確か「まどかマギカ」だったと思う。面白いという情報を聞いていて、じゃあやってみるかという感じだった。

 

ビギナーズラックという言葉を使いたくなったのはその時が初めてだった。

200枚(4000円)ほど入れてあれよあれよという間に大当たりし、ARTという簡単に言えばメダルが増えるゾーンに入り、瞬く間に2500枚ほど出ていた記憶がある。約4万円ほどのお札が増えていた。なんだこの遊戯は…(興奮)

当初の予定ではどういう風に表現しているのかとか世界観を再現しているのかという気持ちだったはずなのに。金が増えている興奮や他の出ていない遊戯者に対しての謎の優越感みたいなものに溢れていた。いや…溺れていたのだ。

そこから自分が底なし沼のようにズブズブとハマってしまうのに時間は要しなかった。少しでも時間が空けばパチンコ屋に出向く。台に向かう。サンドに札を入れる。ハンドルを回す。レバーを叩く。ボタンを押す。メダルを入れる。

サンドに札を入れる。ハンドルを回す。サンドに札を入れる。サンドに札を入れる。サンドに…。

 

なんだかおかしいと早い段階(といっても翌年の2017年頃)で気づけたのは幸いだったと思う。毎月銀行口座を見ている日があったが、預金残高の数字が減っていた(約100万くらいだったろうか…)。当たり前なのだ。パチンコスロットは勝てない(勝とうとするための工夫もしていなかった)という現実に気づくまでに一年という時間や金や健康面(私はタバコを吸わないが、周りの遊戯者は吸う人が多い)を損ねていた。いや正確に言うと気づいてはいた。遊戯中に『これは駄目だろうな』『パチンコスロットで勝ったとしてもすぐにその金も使う羽目になるんだよな』『遊戯者の金でここは成立してるんだよな』そんなことは何べんも実は考えていた。が、忘れてしまうのだ。大当たりという文字、虹色の演出、「おめでとう!」という祝福の声、パチンコ屋の壮絶な爆音そういったものが私の中の冷静さや思考を忘れさせていた。

 

今振り返ってみると、あの時の私はおかしいよなと思う。ただ当時の私は全くおかしさを覚えていなかった。大当たりをする、メダルや球が出る、金が返ってくる。そのことに大げさではなく生きがいを感じていたとすら思う。

パチンコやスロットは大当たりをした後に必ず「パチンコパチスロは適度に楽しむ遊びです のめり込みに注意しましょう」という一文が出る。

この文章…どれほど意味があったのだろうと思う。多くの遊戯者が大当たり中に考えることは、どれだけこの大当たりの時間を長く続けられるか。でしかない。ほどほどに遊ぼうと考えられる余裕を与えるほど、台の中毒的演出は生易しくないのだ。

 

今では全くパチンコやスロットを打たなくなったが、いつまたこの毒に冒されてしまうかは分からない。コロナによるパチンコ屋自粛の動きもあってか、より一層どうでも良くなっていた。

「9:40朝抽選 ご入店・朝抽選にはマスクのご着用が必要です」

今日も明日もマスクを着用しながら抽選を受ける人たちがいる。マスクを着けているから遊戯者たちの表情は分からない。彼らがどのような心理状態で台に向かい続けているのだろうか。…少し聞いてみたいと考えていた。

 

「イエスタデイをうたって」~陽キャも良いけど陰キャのが良くないですか?~

https://singyesterday.com/interview/interview02/

藤原 ところで、冬目先生の中では、ハルって根明(ネアカ)なんですか? 根暗(ネクラ)なんですか?

冬目 それはもう、みなさんの捉え方にお任せしたいのですが、たぶん……暗いんじゃないでしょうか(笑)。

藤原 そうですよね。でも、それでも、明るく行ったほうがいいよね、というのを目標にしている子なのかな、と考えました。そういう姿がすごく意地らしい。一方、花澤(香菜)さんの榀子、花江(夏樹)さんの浪の芝居もすさまじいです。

 

この対談、「イエスタデイをうたって」という作品のアニメ監督と原作者のやり取りなのだが、この「根暗」と「根明」という表現はなんだか久々に見て懐かしいいいいい!

となった…。

今のトレンド表現って「陽キャ」と「陰キャ」ですよね?間違えてないですよね?

 

陰キャいんキャ)」とは、陰気性格の人を意味する俗語。「陰気キャラ」「陰気キャラ」を略した若者言葉である。これに対して陽気なキャラの人は「陽キャ」という。

スクールカースト文脈においては実際性格陰気かどうかをさほど重要な条件とせず、スクールカースト下位位置する、いわゆるクラスの「イケてない」人やグループ総称として用いられることも多い。また陰キャは、コミュニケーション能力のない人、社会性の低い人という意味で使われる場合もある。他人見下すニュアンスでも使われる。ここ数年ほどの間に、大学生などの間で多用されるようになった

ひところ流行った「ネクラ」「ネアカ」といった言葉と、ニュアンス的には似ている同様の類語としては「非リア充」「リア充」といったものも挙げられる。陰キャが、キャラ的なものであるに対して非リア充リア充は、実際の生活実態によるところが大きい。陰キャ使用例としては「あの子陰キャだから友達少ない」「研究定評のある大学だから入学してみたら、じつは、陰キャ大学だった」など。

 とりあえず「陰キャ」で調べてトップに出てきたWeblio辞書から引っ張ってきた。

「ニュアンス的には似ている」ん?なんだこの感じ…根暗と陰キャは違うんです?

なんか言葉の定義とか文脈とかとりあえず置いておいて…

陰キャ(根暗)て良くないですか?ということを書きたい。

 

イエスタデイをうたって」は大卒後フリーターをしているリクオ、高校中退してフリーターをしているハル、リクオの大学時代の同級生で教師をしているシナコ、シナコが好きだった幼馴染の弟のロウの4人がメインで構成される恋愛ものである。

この作品一言で表すなら「色々と悩んでしまって関係性を進められない話」という感じになる。まあ一言で表現しちゃうとその程度なのだが、ただ悩み方が良いのである、そう、登場人物「全員陰キャ」感がたまらないのだ。

全員分の陰キャシーンを一つひとつ丁寧に取り上げていきたいが、とりあえず現在トップの陰キャシーンを挙げたい。

 

第9話「クリスマスキャロル」

ハル「リクオがコンビニを辞めてから、私にとってちょうど良かったバイト帰りにちょうど顔を出すっていう口実が無くなった。三つ先の駅にある写真スタジオまで行って、リクオの私生活に足を踏み入れて、もし拒絶されたら…んああああああ!(布団上でゴロゴロして叫び出す)シナコ先生はリクオのことどう思ってるんだろう…あああああ!負けるもんかあああ!」

 

 

最高すぎるだろこの陰キャ感、マジでよ…

 

もうね私は前から思ってたんですね。布団の上でジタバタしたりゴロゴロして叫ぶキャラってのは基本陰キャなんだよなと!

多分、多分なんですが、陽キャはこんなことしないんですね。(私はド陰キャなので陽キャの気持ちは分からないですけど)ハルがリクオのことを素直に好きなら拒絶されてもしゃーねえ!とりあえず自分が好きな気持ちは抑えられねえから、三つ先の駅の写真スタジオにガシガシ通ったる!っていうメンタルになりそうなもんなんですね。

さらにですね、ライバル関係にあるシナコのことまで考え始めてもうドツボにはまっちゃうわけですね。素直に自分の気持ちを通していくことに専念すれば良いはずなんですが、ライバルの心理状況まで考えだしてウジウジしだしてさらに課題が複雑になっていく。うーん見ていて美しさすら感じるやつです。

 

この作品、登場人物「全員陽キャ」だと多分3話とか4話ぐらいで終わりそうな話だ。お互いに悩む心理描写や、繊細な表情や美麗な背景描写に力が注ぎ込まれているため、話を構成できている。陽キャのガシガシと行く感じも凄い好きだが、陰キャのひたすらどうしようどうしよう…と悩んだり苦しむ様こそなんだか人生を感じたりしていた。

 

 

「響け!ユーフォニアム」は青葉真司容疑者を救う術を提示していたか?

※この内容は決して青葉真司氏の容疑を肯定するものではありません。

※まとまりもありません。

奏「たくさん練習して、毎日毎日居残りして、それで上手くなっても何も無いかもしれないんですよ! 誰も喜んでくれなくて、良いことも一個も無くて!」

久美子「そんなの当たり前だよ!一生懸命頑張って、努力して、努力して、努力して…でも結局駄目だったなんて誰にでもあることだよ!そんなのばっかりだよー!」

「でも…私は頑張れば何かがあると信じている…」

「少なくとも私と夏紀先輩は絶対奏ちゃんのこと守るから…」

 

「劇場版響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」の名シーンである。

努力が報われない可能性、理不尽な状況に陥ること、自分の無力感に打ちひしがれることそんな人生における苦しみを凝縮し、解放していく流れは心を動かされる。

 

https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_2691.html

京都アニメーション代理人弁護士によりますと、過去の作品の応募について京都アニメーション側が再度調べた結果、殺人や放火の疑いで逮捕状が出ている青葉真司容疑者(41)の名前と一致する応募があったことがわかりました。応募は、一次審査で落選していたということです。青葉容疑者は事件直後に「小説を盗まれたから放火した」と叫んでいます。代理人弁護士は応募があった小説の内容について「京都アニメーションの作品との類似点はないと確信している」としています。

青葉容疑者は小説を応募し落選してしまう。さらに、自分のアイデアや内容を部分的に流用されていると(そのような事実が無いとして、仮に本人の中でそう認識してしまったら)分かってしまったら…どのような思いを抱くだろうか。

 

努力が報われない可能性、理不尽な状況に陥ること、自分の無力感に打ちひしがれること…そんなどうしようもなく嫌になる気持ちや状況にどうやって私は、私たちは再び起き上がる術を得られたのだろうかと考えることがある。

もしも…もしもだが、主人公たち北宇治吹奏楽部が予選落ちした後、彼女らは全日本吹奏楽連盟内閣府?)をバーニングさせよう!みたいに流れになる可能性を考えたりする。だが、彼女たちはバーニング!を計画することもなく、審査員をぶっ〇すために包丁を買いに行きもせず、次のコンクールに向けて再び練習を再開するのである。

 

『いやそれが当たり前だろ、青春物語ってのは挫折の上にそれを受け入れて(適応機制における)昇華をしていくのが王道でしょ。バーニングも包丁もただの犯罪行為だし、そんな物語になったら彼女たちの努力って何だったのよ』

自分の中にある一般的思考がそう囁く。

確かに…確かにそうなのだが、何故昇華することが良くて攻撃することが良くないのかということをどれだけ自分は説明できるのかと考えてしまう。

今作の最後のシーン

久美子「ねえ奏ちゃん?悔しい?」

奏「悔しいですっ…悔しくって死にそうです!」

そう、「悔しくって死にそうです!」なのだ。

「悔しくって殺しそうです」 にはならない。

(奏が一人ずつ審査委員をザクザクしていく物語はそれはそれで面白そうだが…)

怒りの方向が外側ではなく、内側に行くわけである。

 

昨今はアンガーマネジメントやマインドフルネスなど自分中の怒りの感情だったり、落ち着いた状況を自ら作り出していくことが求められている時代になってきてる気がしている。もしかしたら青葉容疑者がこういった精神的マネジメントやコントロールといったものを理解していたら…このような事態にはならなかったのかもしれない。

また、彼に久美子や夏紀先輩のように守ってくれるような人がいたのだろうかと考えたりする。

久美子たちは一人ではない。もちろん価値観や思想の違う人間たちとの協働によるフラストレーションはありつつも、同じ目標を掲げた集団である。

予選落ちしても犯罪組織にならない社会通念を持ち合わせている仲間である。

一方で彼はどうなのだろうか。小説を書くという行為は自分一人で完結できてしまう。

努力をするという行為は結果が実らなくても意味があるものだと話してくれる人がいただろうか。京都アニメーションに報復しようという考えに気づいた人がいただろうか。小説を書き上げて応募したことを評価してくれる人がいただろうか。

 

青葉容疑者が「響け!ユーフォニアム」を見たらどのような感想になるのか素直に聞いてみたい。彼を救う術をどれだけ提示できているのか、または憎しみの対象になるのか、努力の可能性を見いだせるのか…聞いてみたいのである。

 

ちはやふる 「待つ」ことの難しさと可能性

「いのちを守るstay home週間」と呼ばれていた4月5月間、色々なアニメを見ていた。

true tears響け!ユーフォニアムやがて君になる、若おかみは小学生、ちはやふる

過去に見たことがある作品群だったが、こういう時期に見るとどういう感想になるんだろうという衝動で一気に画面に食らいついていた。

 

true tears最終話「君の涙を」の中で主人公の母親である仲上しをりは、ヒロインの一人である湯浅比呂美と色々な過程を経て和解(結束?)をする。

しをりは一人暮らしを始めた比呂美の家にあがり、(画面右下に俯きながら)お茶を飲みながらこう言う。

「待つのって…体力いるのよね」

比呂美は(画面左下に俯きながら)静かに返答をする。

「ありがとう…ございます…」

 

truetearsは様々な名シーンが挙げられるが、このシーンは鳥肌が立つくらいのドラマを垣間見られる。しをりが過去どんな「待つ」場面があったのか、本編では一切描写されない。彼女の表情や比呂美と対称的な構図はまるで鏡合わせの二人だ。

「待つ」ことの辛さ、苦しさ、切なさの中に可能性を信じるまなざしも確かにあった。

 

今回はこのままtruetearsをダラダラ書いても良いかなあと思っていたが、やっぱり「ちはやふる」熱が最高潮にあるため、「ちはやふる」にシフトしていきたい。

 

ちはやふる第五話「よはのつきかな」である。

主人公綾瀬ちはやは小学時代に出会った綿谷新にかるたを教えてもらい、そこからひたすらにかるたの経験を積み重ねていた。新は福井に転校しなくてはならなくなるが、「かるたを続けていればまた会える」という言葉をお互いに掛け合い再会を誓って別れを告げる。

高校生になった彼女らは新に連絡すると、もうかるたはしないと言われてしまう。

真相を知るため福井に行くと、新はかるた大会に出ている間に祖父が亡くなってしまったことを契機にかるたをできなくなってしまったことを知る。

しかし、ちはやの説得によって新はかるたを再開したい。また、ちはやに会いたいという芽が息吹く。

ちはやに同行していた真島太一は言う。

「新は必ず戻ってくるから、俺たちは日本一のかるた部を作ろう。強くなってあいつを待とう」

 

ちはやふる3最終話「かぜをいたみ」である。

高校3年となった彼女らは進路を考えていた。真島家は母親による医者になれという圧があった。太一はちはやに告白をするが、ちはやはそれを断る。

傷心と医者になるために本格的に勉強をするという動機から太一はかるた部を辞める。

一方でメキメキと確実に名人への道を進んでいた新は、個人戦だけでなく団体戦もしたい気持ちから、高校で部員を集めて個人戦との違いを痛感していた。そして、太一が部を辞めるという話を聞き、新はちはやに言う。

「太一は必ず戻ってくるから、強くなってあいつを待とう」

 

思えば、ちはやふる1が放送されていたのは2011年の10月で今から9年も前だ。

ちはやふる2は2013年1月、そして3は2019年10月に放送された。

もっぱらアニメ派である私は、当時1と2を見終わった後にいつ次放送されるのか楽しみで仕方がなかった。2放送終了後、約6年間私と同じような「ちはやふる」ファンが「待ち続けていた」と思う。

 

想像する。この6年間のことだ。

私のように「ちはやふる3」を見られたファンはどれほどいただろうか。

もしかしたらもう興味が無くなってしまった元ファンもいたかもしれない。

もしかしたらもう亡くなってしまったファンもいるかもしれない。

そんなことを想像していた。

 

「待つのって…体力いるのよね」

彼女の言葉をまた思い出していた。stay home週間の最中だった。

stayには「とどまる」という意味もあるが、「耐える」、「支える」、「励ます」

という意味があることを知った。

「待つ」ことの難しさ、切なさ、厳しさを私たちは痛いほど認識させられていた時だった。太一と新の「あいつを待とう」という言葉に私は非常に感情を揺さぶられていた。

 

 

やり取りの記録vol.4

テレビってまだまだ現役なのでは

テレビ見てる人減ってるってたまーに聞いたり聞かなかったりする。

環境によると思うけど、テレビ見てる人は未だに多いと思うんだよなあ。

深夜アニメ視聴者としてはテレビはまだまだ手離せない存在で、

ネットでがんがん自由に見られる状況になったとしても

テレビ放送(続くなら)を見続ける覚悟でいる。

ある程度に時間の枠という制限された中で見るから良かったりする。

レンタルしたDVDを結局見ないで返してしまう現象。

いつでも見れるからーはずっと見ないからーに繋がりやすい。

続きを読む